原語で聖書を読む

ギリシャ語の説明2009.10.21更新

1・ギリシャ語にふれること

聖書の原語に戻ろうと言う歴史上、最初の大きな運動は、ヨーロッパのイタリアを中心に13世紀末から15世紀末にかけて、神中心から人間中心の文化、芸術復興運動、ルネッサンスのとき、学者たちを中心に、ギリシャ・ローマの原語に戻ろうという人文主義でした。

その人文学者を目指していたのがジャン・カルバンでした。ご存知のように、後に宗教改革者、神学者になりましたが。カルバンはまさに、聖書の原文に戻ることを実践し、原文での聖書研究の成果として、聖書注解書とキリスト教綱要を著しました。

当時は、それぞれの国の言葉に訳された聖書には不適切な訳が多かったそうですし、権威のあるラテン語訳聖書は一般の人には難しくて読めませんでした。ですから、カルバンの働きによって、聖書の本当の意味がわかるようになったのです。今日の、たとえば日本語訳聖書は、「もうこう訳すしかない」ところまで来ています。しかし、私の場合、日本語の聖書を読むとき、神様から来ていない考え、聖書からきていない思想、律法的な考え、懲罰的な考え、先入観で読んでいることがあり、原語に触れることによって、それらの自分を縛っている考え方から解放されるのです。私にとって、原文に触れることは、「私の宗教改革」です。

 

2・ギリシャ語の歴史

@古代ギリシャ語(BC1000−BC300)

ギリシャには、それぞれ先住地が違う、イオニア人(小アジア)、アカイヤ人(アテネ)、ドーリア人などというギリシャ人の種族がいました。かれらは、山脈や複雑なリアス式海岸などによって、交通が遮断され、それぞれが話すギリシャ語は、方言化され、BC300ごろには、お互い理解不能にまでなっていました。

 お互い通じないことの不便さの中で、ペルシャ戦争による、ギリシャ人としての民族意識

高揚が、各ギリシャ語を統一の方向に導いていきました。

同じギリシャ語を話すマケドニアにアレクサンドロス大王(BC356-323)がました。彼の家庭教師はギリシャの哲学者アリストテレス(BC384-322)その師が、プラトン(BC427-347)さらに、その師がソクラテス(BC469-399)だった、だから、アレクサンドロスはギリシャ語に造詣が深かったと思います。彼が、ギリシャを攻め、ギリシャを支配下に置き、マケドニア帝国を建設していく中で、ギリシャ兵を雇ったとき、ギリシャ兵同士がギリシャ語の方言が強くて、コミュニケーションがとれず、命令系統がうまく機能しませんでした。そのことに危機感を覚えたアレクサンドロス大王は、ギリシャ語の学者を動員し、ギリシャ語の共通語を作らせたのでした。それが、コイネー(共通語)・ギリシャ語です。

コイネー・ギリシャ語は、ギリシャ哲学にあっては、真理を正確に、厳密に、細かく表現し、かつ、軍隊内にあっては命令系統をととのえ、コミュニケーションを円滑にする最適なことばとなりました。寄せ集めの感じがしますし、人為的なところもありますが、そのコイネー・ギリシャ語が成熟したころ、聖書に用いられたのでした。旧約聖書の70人訳聖書も、BC300年ごろコイネー・ギリシャ語で書かれました。

なお、ギリシャ人は、フェニキア人から航海術を学び、イタリア、アフリカ、小アジアと商業圏を広め、各地にギリシャ語文明圏を広げました。ゆえに、ローマ帝国時代になっても、ローマ人は、ラテン語と言うことばをもちながら、ギリシャ語を公用語としました。したがって、コイネー・ギリシャ語は当時の世界共通語ともなりました。

 やがてコイネー・ギリシャ語は、中態が受動態に吸収されたり、接続法不定過去形と直説法未来形が区別されなくなるとか、不定詞の事実上の消滅など、かつての多様な表現方法が単純化されていきます。

つまり、真理を厳密に表現し、コミュニケーションを円滑に進める最も良い状態のコイネー・ギリシャ語で新約聖書は書かれたことになります。そこに、神様の大きなご計画を感じます。

 

ギリシャ語が物事を正確に細かいところまで表現できるのは、その動詞の法、時制、態がきちっと描き分けられているからです。

 

3・動詞の法について

ギリシャ語の動詞の説明を見ると、たとえば、直説法・現在形・能動態・2人称・単数と書かれています。この直説法とは何でしょうか?時には、接続法・アオリスト・受動態・1人称・複数なんて書いてある。接続法とは何でしょう。

この法というのは、日本語でも、英語でも見られないので、理解しにくいかもしれませんが、表現する世界を表しています。つまり法は4つありますが、直説法は現実の世界を表現し、接続法は現実ではないが、実現しそうな世界を表し、希求法は、実現が望まれる世界を表し、命令法は、実現していないが、実現が強く望まれる世界を表しています。現実的であるかの強い順番からいくと、直説法→接続法→希求法→命令法であり、

実現が強く望まれる順番からいくと、命令法→希求法→接続法→直説法となります。 その文法が重要になってくるのは、4つの条件文においてです。

「もし〜なら、〜だ。」と言うギリシャ語の条件文には、

@     既決定的条件文 第一種条件文 仮定を事実と認めて論を進める(条件文・直説法)

A     既決定的条件文 第ニ種条件文 仮定が事実でないと知りながら反対の仮定をする。(条件文・直説法)

B     未決定的条件分 第三種条件文 仮定が事実になるか未定、話者はある程度の可能性を考えながら想定(条件文・接続法)

C     未決定的条件文 第四種条件文 仮定の可能性を問題にせず想定、 

と言う四つの条件文があり、既決定的条件文の仮定は直説法、未決定的条件文の仮定は接続法が使われる。

B第三種条件文

eja;n pisteuvsh/"   o[yh/       th;n dovxan tou' qeou'_ ヨハネ11:40

If     youwould believe ,   you will see     the glory        of God.

      (接続法・アオリスト)(直説法・未来形)

「もし、あなたが 信じるなら、あなたは 神の栄光を見る」ヨハネ11:40

イエス様は、「あなたは今信じていないが、信じる可能性が高くなっているが、もし、信じるなら、100%神の栄光を見る。」と言われています。これは、単に、「もし〜なら、〜だ。」と言う理論を言っておられるのではなく、信じなさい。と言う強い命令の内容になっています。しかも、命令法のように、可能性が低いわけではなく、ずいぶん可能性が高い状態であることがわかります。

 

4・ギリシャ語の時制

ギリシャ語動詞には6つの時制(tense)があります。しかしそれは時制というより動詞の相、方向性(aspect)といったほうが良いでしょう。

現在形(present=pre.pr.)直説法では、現在を表現しますが、直説法も含め、ほとんどの法で、動作の継続、繰り返しを表現します。

未完了形(imperfect=impf.)直説法のみに使われ、過去に進行していたことを表現する。

未来形(future=f.fut)直説法、希求法、不定詞、動名詞に使われる。未来を表現するが、と同時に確実に実現する事柄を表現する。

不定過去、アオリスト(aorist=ao,a)そのような事実があったことを表現。もっともポミュラーな表現法

完了形(perfect=perf,pf)過去の動作の結果の状態が現在も続いていることを表す。

過去完了形、大完了形(pluperfect=pp,pl)直説法のみに使用し、過去の動作の結果の状態が今はないことを表現する。

直接法の不定過去、現在形、未来形、未完了形、完了形、大完了形をギリシャ語にはありませんが、「Aさんは牢獄に入っている。」で表すと分かりやすいと思います。

不定過去―「Aさんは牢獄に入った。」Aさんが一度は牢獄に入ったことは確か、ただ、今、入っているかどうかは、不明。

現在形「Aさんは牢獄に入った。」Aさんは今、繰り返し、牢獄に入っている。

未来形「Aさんは牢獄に入る。」Aさんは将来、確実に牢獄に入る。

未完了形「Aさんは牢獄に入っていた。」Aさんはかつて、繰り返し返し牢獄に入った事があった。たぶん今はない。

完了形「Aさんは牢獄に入って。今も牢獄の中にいる。」かつての動作の結果の状態が今も続いていると言うことだから。

大完了形「Aさんは牢獄に入っていたが、それは過去のこととなった。今は入っていない。」

コイネー・ギリシャの動詞の時制が「過去」「現在」「未来」と言う時制を表現するのは直説法のみです。

接続法以下の動詞の時制は、様相(アスペクト)、つまり、継続、繰り返し、1回だけの動作などを表現します。

@直説法現在形

マタイ16:16 あなたは生ける神の御子キリストです(直説法現在形)。

You are the Christ   the sou of the God of the living

今現在キリストと言う存在であられる。

A直説法未完了形

マタイ14:23群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。

「夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた(直説法未完了形)。」

evening And coming on    alone   he were there.

未完了形=過去の継続的動作 イエス様はご在世のとき、習慣的に一人になっておられたことを表す。

B直説法未来形

マタイ5:48だから、あなたがたは、天の父が完全 なように、完全でありなさい。

Will be therefore  you    perfect  as   the Father of you the heaven     perfect  is 

(直説法未来形)

「完全」と訳されたテレイオスは「成長した」とも「成熟した」とも訳されますが、ここで強調したいのは、未来形が使われているということです。新約聖書の未来形は必ず実現することを表します。私たちは必ずテイレイオスになるのです。これはイエス様のお約束です。

C直説法アオリスト(不定過去) 

 I    But prayed @    for   you  because   you shuld not loseA belief     of you.

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならない(接続法アオリストA)ように、あなたのために祈りました(直説法アオリスト@)。」ルカ22:31

ギリシャ語の動詞の意味の強さは 完了形>現在形>アオリスト となり、アオリストは単に、動作や状態を表現する。直説法アオリストは過去の単純な動作、状態を表現する。

D直説法完了形

1コリント15:4また、聖書に従って三日目によみがえられた(直説法完了形)こと、

and that he has been raised on the day     third  according the scriptures/            

完了形は過去の動作の結果が今の状態であることを表す。イエス様は2000年前によみがえられ、生きられたので今も生きておられる。イエス様がよみがえられた(直説法完了形)は、イエス様が今も生きておられると同じ表現。

E直説法過去完了形(大完了形)

マルコ1:34そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていた(直説法過去完了形)からである。

and did not allow to speak the demon,     because they knew him                                                    

過去完了形は完了形と対照的に、過去の動作の結果がいまの状態になっていない。と言う意味です。

つまり、悪霊は、過去においてイエス様を知っていたけれど、その知識は悪霊自身になんの関係もないことを表します。悪霊は、イエス様のことを知っても、何の感動も、感謝もなく、それによって心動かすことはありませんでした。ですから、マルコ1:34は「そして、(イエスは)悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった、彼らがイエスを知識として知っていただけだったからである。」が丁寧な訳です。

b・接続法

@    接続法現在形

1ヨハネ4:7愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう(接続法現在形)。

Beloved,       let’s love     one another.直訳 愛する者よ、わたしたちは互いに愛する。接続法現在一人称は「〜しましょう。」と言う訳になります。「ここで互いに愛し合いましょう。」は命令法より可能性があるニュアンスがあります。「互いに愛し合いましょう。できるよね。」と言う感じ。

A    接続法アオリスト

マタイ6:15しかし、人を赦さないなら(接続法アオリスト)、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

But if not  you forgive the men,

neither the Fathe  of you   will forgive the trespasses         of you.

まだ実現していない、条件文に接続法は使われます。この接続法はアオリストの否定文です。アオリストの否定文は、その行動全部の否定を表します。つまり、「あなた方が、少しも、一瞬たりとも人を赦さないなら、・・・」と言う意味です。

これは後から述べる第三種条件文なので、「少しぐらい人を赦せよ!」と言う窮極の命令文です。

B接続法完了形

マタイ9:6しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかる(接続法完了形)ために

 in order But you may know that authority has  the son of the man

on the earth to forgive sins.

c・希求法

@    希求法現在形

使徒8:31「導く人がなければ、どうしてわかりましょう(希求法現在形)。」

How indeed  should I be able unless     someone shall guide    me?            

A    希求法アオリスト

ローマ6:1恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。だんじて、そうではない

May we contine the sin,      in oder that grace   may abound? not May it be.

聖書は、恵みに留まるために罪に留まる傾向があることを暗示している。

d・命令法

@    命令法現在形

ヨハネ14:1あなた方は心を騒がせてはいけません(命令法現在形)、

Let not be troubled   of you the heart.

心を騒がれ続けてはなりません。少しぐらい心を騒がすことはよい。

A    命令法アオリスト

使徒16:31主イエスを信じなさい(命令法アオリスト)。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。

Believe      on   the  Lord   Jesus  and will be saved  you and the household of you.

マタイ6:34明日のことを思い煩うな(接続法アオリスト能動態2人称複数)。not  therefore  will be anxious  for   the  tomorrow.

接続法の2人称で、命令の意味になる文章もあります。この場合は、アオリストなので少しも心配するなと言う意味。(直訳:あなたがたは少しも心配しないはずだ。)

B    命令法完了形

1コリント15:58いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから(命令法完了形)。

abounding         in the work  of   Lord     always.

 Know    that  the labour  of you   not    is      empty  in  the Lord.      

「知る」の命令法完了形の例(知っていることを前提にしなさい。知った後どうすべきか考えよ!)

ローマ13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

エペソ6:8 良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています

1ペテロ1:18 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

 

5・ギリシャ語の態

ギリシャ語動詞には3つの態(voice)がある。

能動態(active voice=act)中態(middle voice=mid.)受動態(passive voice=pass)

特に中態は、英語にも、日本語にもないのでわかりにくいですが、能動態と受動態が合わさったものです。

ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(中態) (=自分を自分自身で変えると同時に、神様に変えていただく)

また、自身のゆえにと言った訳になります。

使徒1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれる(中態)とき、

(聖霊ご自身が、ご自身の意志で、ご自身のご計画のゆえに臨まれる)

 

6・ギリシャ語の構造

たとえば、パウロのギリシャ語は、文章の構成が複雑ですが、きちっとした構成になっています。その構造がわかると、意味もよくわかるのです。新約聖書のギリシャ語を読むということは、その構造を知り、日本語では表現できない、聖書の著者の理論の進め方を知ることができます。

I went to school playing tennis. 私は学校に行き(その結果として)テニスをした。

                 動名詞=ギ:分詞

I went to school to play tennis.私は、テニスをするために(=目的)学校に行った。

                 不定詞

エペソ5:18御霊に満たされなさい(主動詞)。:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り(分詞)、主に向かって、心から歌い(分詞)、また賛美しなさい(分詞)。:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい(分詞)。:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい(分詞)。

御霊に満たされなさい。その結果として賛美し、感謝し、互いに仕える。とパウロが論じていることがわかります。エペソ1:3−13では、神様の選びの目的と結果が論じられていることがわかります。

 

7・ギリシャ語の本文批評

たとえば、現在、パウロ自身が書いたエペソは現存していません。オリジナルの聖書は現存していません。今、存在するのは、すべて写本です。コピーです。1450年にグーテンベルグが活版印刷を発明するまでは、本も聖書も、写本家によって書き写されていました。今、聖書の多くの写本が現存していますが、結構、細かいところで違いがあるのです。写本家は、ずいぶん注意して書き写していますが、人間の書き写しですから、うっかり書き間違えたり、思い込みで書き間違えたり、写本家が手本としている写本は間違いだろうと考えすぎて訂正のつもりでまちがえたりがあるのです。ですから、たとえば、ネスレ版という、各国で訳される聖書の元となるギリシャ語聖書がありますが、それは、いろいろ写本によって文章が違う場合、写本同士を比較して、おそらく正しい文章はこれだろうと推論して編集されたものです。でも、写本によってどう違っているか調べてみると、いろいろ教えられる場合があるのです。写本家は単に、前の写本を忠実書き写しているだけではありません。かなりのギリシャ語の知識、神学の知識があって、前の写本に間違いがないかチェックしながら書き写しているのです。その写本家の気持ちになってギリシャ語の写本を読んでみると、写本家自身の苦悩のようなものも見えてきます。

たとえば、マルコ11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

これは、私たちも「え?」と思う箇所ではないでしょうか?祈っていることはもう与えられていると信じるなんて!これは、写本家も同じく戸惑っていることがわかるのです。

「すでに受けた」のすでには原文にない訳の補足ですが、とにかく4世紀の最も信頼できるシナイ写本がアオリスト、つまり「受けた」と書いてありますが、5世紀の次に信頼できるアレキサンドリア写本では祈っていることは「受け続ける」と現在形で書かれてあり、5世紀の有力なカンタブリジエンシス写本では、祈っていることは「やがて受ける」と未来形で書かれています。もっとも信頼できる写本が「祈って求めるものはすでに受けたと信じなさい。」なので、オリジナルはそれだろうとなっていますが、写本家さえ、戸惑ったことがわかるのです。

 

信仰を求められるイエス様

2008.2.25

「もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。とわたしは言ったではありませんか。ヨハネ11:40

この、「もし・・・」と言うギリシャ語の条件文は、4週類に分けられています。
ヨハネ11:40は三番目に分類された条件文です。条件節が接続法(仮定法)なので、未来の不確かを表現しています。イエス様は「今から、信じるなら、確実に神様の栄光が現される。」つまり、意味としては、「神様の栄光が確実に現されるから、信じなさい。」と言う強い命令文なのです。しかも、「とわたしが言ったではありませんか?」は重要で、イエス様はよく「信じるなら神の栄光を見る。」とメッセージしておられたことがわかります。信じましょう。

憤られる?イエス様

ヨハネ11:33,38「憤る」=エムブリマオマイ        2008.2.19

そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、ヨハネ11:33
そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。ヨハネ11:38

イエス様が憤られたと訳されているのは、ヨハネ11章の二箇所だけです。
憤ると訳されたエムブリマオマイというギリシャ語の動詞は、ほかに、「厳しくいさめる」と言う訳で、イエス様が、イエス様に癒された盲人に、人に言わないように言われた所と、マタイ9:30、イエス様がイエス様によって癒されたらい病人に誰にも言わないようにと戒められたところマルコ1:43とイエス様に香油を塗った女に人々が厳しく責めたところマルコ14:5の3箇所があります。

ある神学者は、「イエス様が憤った」と言う訳は良くないと言っています。
先ほどまで、ラザロのために涙を流されたイエス様が憤られるというのが不自然だからです。では、実際の所、エムブリマオマイというギリシャ語の動詞には、どんな意味があるのでしょうか?

結論から言うと、イエス様は、私たちが憎くて憤られることはありません。ただ、私たちが、ひとつのことを止めようとしないとき、それをやめさせようと、強い調子で止められるとき「憤られる」のです。
ヨハネ11章では、人々が復活に対して不信仰をやめようとしないために、
「憤られました。」イエス様はどこまでも、私たちを愛し、嫌われません、にくまれません。

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